Masuk「原本まで持ってきたの?」
彩香は紬のバッグから出てきたスケッチブックを見て笑った。カフェの窓際に座る彼女の前には、コーヒーが2杯置かれていた。紬はコートを脱がないまま、向かいの椅子にまずバッグを置いた。
「直接見ていただいたほうがいいと思って」
「まだ持ってたんだ。私は引っ越しのとき、昔のものはほとんど捨てちゃったけど」
彩香は紬のコーヒーを少し手前へ押してくれた。カップの外側には水滴がついている。紬は温かい水も注文できるか尋ね、それからスケッチブックを開いた。
金曜日の午前のカフェには客が少なかった。コーヒーマシンが動くたびに少し声を大きくしなければならず、その後は隣の席まで話が聞こえたのではと気になった。紬は原稿を彩香のほうへ向けて話し始めた。
「紹介資料に入っていたクリーニング店の場面です。ここからここまで、私のネームと同じです」
彩香は紙の上を見下ろした。手を伸ばしてページをめくろうとしたので、紬が先にそのページを開いた。古い綴じ目をこれ以上広げたくなかった。
「これを見せるために会おうって言ったの?」
「はい。どうして使われたのか、お聞きしたくて」
「あのとき、私たち一緒に作業したじゃない」
彩香は何でもないことのように言った。紬はコピーをもう1枚置いた。
「彩香さんが色の練習をしてみたいと持っていったんです」
「うん。だから一緒にやってみたでしょう」
「絵は、私が全部描いた後でした」
彩香はコーヒーを持ち上げ、一口飲んだ。テーブルの上に置いた手には、細い指輪が2つはまっていた。カップを置くとコースターが少しずれ、スケッチブックの下へ入った。
「紬。色をのせただけなら、全部自分の絵だって思ってるの?」
「色は彩香さんが塗りました。看板と背景も新しく描かれています。その部分の話ではありません」
紬は持ってきた紙の、印をつけた場所を指した。
「店の中を隠してから見せる順番、女の人が向きを変える位置、手を伸ばす場面です。セリフも最後の言葉だけ変わっています」
「そんな構図、よく使うでしょう」
「別々に見ればそうかもしれません。でも、こうして続いている場面は私が作ったものです」
紬の指が紙の上の次のコマへ動いた。彩香はその手を追わず、コピー全体を見た。最後のページを少し持ち上げて裏返し、何もないとわかるとまた置いた。
「これだけ見て作品全体の話をされたら困るわ。私のはこれから始まる長編よ。後の話はまったく違う」
「だから、この場面のお話をしているんです」
彩香の表情から笑みが少し薄れた。紬は今からでも、古いファイルを間違えて選んだのだと言ってくれるのを待った。そうであれば、どこにどんな名前を入れるか決めればよかった。
代わりに彩香は、指の描かれた部分を拡大した。
「これは私も直さなきゃね」
バッグの持ち手の横にある小さな爪だった。紬はすぐに修正用の紙を持ち上げ、原本の手を見せた。
「私が直す前にお渡ししたファイルにあったものです」
「昔の資料がたくさん混ざってたから」
「その資料を私がお送りしました」
「そうね。あなたが送ってくれたものもあったわ」
紬は手に持っていた修正用の紙を下ろした。「あった」という言葉で、自分のスケッチブックが、いろいろな人の原稿に混じった1枚の紙になった。彩香はコーヒーをそれ以上飲まず、カップに触れながら続けた。
「集まりでお互いにアイデアを出し合っていたのに、10年以上たってから、どれが誰のものか1つずつ分けようっていうのは、どうなの?」
「これは講評会の前に私が描いて持っていったものです」
「講評会の後で直したでしょう」
「順番はまた元に戻しました。それを彩香さんが持っていったんです」
「それを今、全部覚えているの?」
紬はスケッチブックの最初のページを開いた。タイトルを消した跡と、ページの横に書いたメモが見える。彩香はそれを見てうなずいたが、原稿を見るというより、紬の話を最後まで聞いてあげるという態度に近かった。
「あなたが長く持っていたことはわかった」
「持っていたんじゃなくて、私が描いたんです」
思ったより大きな声が出た。コーヒーマシンが止まった後だった。紬は隣の席を振り返らないよう、最初のページに置いた自分の手だけを見た。
彩香は椅子の背にもたれた。
「直人は知ってるの?」
「この絵が私のものだということは知っています。今日会うことも話しました」
「だったら先に旦那さんとよく話せばよかったのに。わざわざ私に、ここまで……」
「彩香さんの作品に使われているから、彩香さんにお話ししているんです」
彩香は答えなかった。窓辺を通り過ぎる人たちが、テーブルの上に影を落とした。スケッチブックの上に落ちる影のせいで、紬は何度も目を細めた。原稿を少し横へ引くと、彩香がようやくまた口を開いた。
「それで、何をしてほしいの?」
紬は短く書いてきた紙をバッグから出した。話しているうちに言いそびれそうで、朝書いてきたものだった。彩香に渡さず、自分の前に置いた。
「この場面のネームを私が作ったと明記してください。これから使うときは、どの範囲で使うかも先に話し合いたいです」
「作家名を一緒に載せてほしいってこと?」
「表記は編集部と決めればいいでしょう。練習のためにお渡ししたものを、連載に使うのは別の話ですから」
「今になって契約を変えろって?」
「彩香さんが描いた部分にまで、私の名前をつけてほしいわけじゃありません」
「会社がそれをそんなに簡単に分けられると思う?」
紬は急いで答えなかった。制作過程を簡単に分けられないなら、一緒に確認すればよかった。けれど彩香は、担当者と相談してみるとは言わなかった。
「それなら、担当の方と一緒に見られるようにしてください」
彩香の手がコースターから離れた。
「私が自分で話すから」
「私も資料を説明したいです」
「紬、今かなり神経質になっているみたいね」
テーブルの下でつま先に力が入った。紬は靴を脱ぎたい衝動をこらえ、座り直した。神経質ではないと言い始めれば、なぜこんなことを言うのか、また最初から説明しなければならない。
「間違って伝わると、直すのがもっと難しくなりますから」
「私が間違って伝えるって言うの?」
「自分の作業は自分で説明する、という意味です」
彩香はスマートフォンの画面を一度確認した。紬が話し終えると、約束の時間になったと言ってバッグをまとめた。上の仕事部屋で待っている人がいるという。
「とりあえず私から会社に話してみるわ。あなたが手伝ってくれたことは、謝辞に入れられると思う」
「手伝いとだけ書いたら、私が作った部分は見えなくなります」
「それだって、私がお願いしないといけないことなのよ」
彩香はコピーをまとめた。原本のスケッチブックまで重ねて取ろうとしたので、紬は手を伸ばし、先に持ち上げた。
「原本は私が持って帰ります」
「絵を見なきゃ説明できないでしょう」
「コピーをお渡しします。同じものをファイルでも送ります」
彩香は手を離し、コートを羽織った。カフェの入り口のほうで誰かが彼女に気づき、挨拶した。彩香は明るく笑って返してから、さっきより優しい声で紬に言った。
「1人で抱え込んで考えすぎないで。直人にもちゃんと話してみるから」
いつものようにうなずきかけ、紬は口を開いた。このまま帰せば、次の返事も直人を通して来そうだった。
「私にお返事をください」
彩香が振り返った。
「この話をしている相手は、私ですよね」
ドアが閉まった後、紬はすぐには席を立てなかった。温かい水はほとんど冷め、コーヒーには氷がいくつか残っていた。スケッチブックをバッグに入れようとすると、コピーが1枚、椅子の下に落ちた。
それを拾ってスケッチブックに挟んだ。家に帰ったら、今日見せたページをファイルでも送るつもりだった。
家に戻ると直人はいなかった。玄関で靴を脱いだ紬は、コートも脱がずに廊下の突き当たりの部屋へ行った。空いた椅子にバッグを置き、下ろしてから座った。
朝書いて持っていった紙には、聞けなかったことが残っていた。
どのファイルを受け取ったのか。
会社に誰の資料だと説明したのか。
公開された場面のほかにも、使った部分があるのか。
紬は記憶が薄れないうちに、彩香の答えを書き留めた。答えのなかったところは空欄にした。色の練習をすると言って受け取ったという自分の記憶と、彩香が共同作業だったと言ったことを、同じ文に混ぜなかった。
それから彩香に、約束したコピーのファイルを送った。
[本日お見せした原本の該当ページです。原稿は私が保管しています]
写真を送ってから長く迷った。担当者に伝えると言ったのだから、待たなければならない。けれど、いつまで待てばいいのかは聞いていなかった。
紬は新しいメッセージに、返答してほしい内容を書いた。
[使用の経緯と表記について、担当編集部に非公開で検討をお願いしたいと思っています。一緒に確認してくださる担当者の連絡先を教えてください]
次のメッセージは何度も書き直した。最初は時間を取ってくれてありがとうと書いた。消して、自分がいつまた連絡するかを書いた。
[月曜日の昼までにお返事がなければ、原本と今日お話しした内容も併せて提出します]
2つの吹き出しの下に既読がついた。
彩香は連絡先を送ってこなかった。紬はスマートフォンを机の横に置き、自分の原稿を開いた。今できることをしなければならない。数日前に先延ばしにした小さな漫画の最後の場面は、まだ空いていた。
窓辺の鳥が飛び立った後、女はカップを洗い始めた。紬は水の勢いを最初より弱めるよう、指の位置を直した。画面を流れる水を細く描くと、カップの青い線が残った。
直人が帰ってきたのは夜7時を過ぎてからだった。紬はリビングから聞こえる足音に、原稿を保存した。彩香から連絡が来たのか先に聞きたかったが、部屋の前に立つ彼の顔を見て言葉を止めた。
「彩香に会った?」
「うん。午前中に」
「どんな話をしたんだ?」
「私の原稿から持っていかれた部分を説明したよ。名前をどう入れるか、これから使うときは先に話そうって」
「それだけ?」
紬は椅子に座ったまま、体の向きを変えた。
「それだけって?」
直人は紬の机の上を見た。スケッチブックとコピー、今日の会話を書いた紙が広げてあった。紬は彼が今からでも絵を見ようとしていると思い、比較したページを前へ出した。
「ここを見て。指まで……」
「それは後で見る。会社に問題を持ち込むって言ったの?」
「一緒に確認する担当の人を教えてって頼んだの」
「会社に話すってことじゃないか」
「彩香さんが私に返事をくれなかったから」
直人は自分のスマートフォンを机に置いた。紬のほうへ向けた画面には、彩香とのやり取りが表示されていた。紬の送ったメッセージを切り取った画像が、その途中に挟まっている。
担当編集部に非公開で検討を依頼するという最初の吹き出しは見えなかった。
月曜日の昼までにお返事がなければ、原本と今日お話しした内容も併せて提出します。
その文の上に、彩香が送った言葉があった。
[あなたの奥さんが私を脅してる]
紬が目を開けると、廊下の先に夫の靴が見えた。昨夜は帰ってくる音を聞かなかった。ドアを開けたままの小さな部屋で体を起こすと、リビングにいた直人がシャツの袖を引きながら尋ねた。「昨日、電話してたね」「うん」紬はベッドの縁に腰掛け、床に足を下ろした。直人が部屋の入口に近づくと、膝に置いていた手を開いた。「昨日、病院に電話したの。食事もあまり取れないし、体が……」「病院は何て?」「様子を見て、また連絡するようにって。でも、一人だと……」直人のスマートフォンが鳴った。彼は画面に目を落とした。「ちょっと待って。もう車が来た」シャツのボタンを留めかけの手で電話に出て、スマートフォンを肩と耳の間に挟んだ。「はい、今下ります。5分で。資料は持っています」紬はスリッパを履いた。電話が終わるまで待っていたが、直人は折り畳んだイベントの資料を先に鞄へしまった。7月9日、水曜日。用紙の一番上には、今日の日付が大きく記されていた。「授賞式は夜じゃないの?」「昼から撮影と対談の準備もあるんだ。今日、終わったら連絡する。打ち上げもあるから」「遅くなるって言ってたね」直人は鞄を持ち上げながら、妻のコップを脇へ押しやった。「ちゃんと食べておけよ。昨日頼んだもの、残ってるだろ」「さっきの話、帰ってきたら聞いてくれる?」「あ
直人は引き出しを開け、ネクタイを探していた。必要な色を言わず、あのとき締めたものとしか言わないので、紬にはどれを指しているかわからなかった。リビングから戻った彼がシャツをベッドに広げると、袖口が彼女のバッグに引っかかった。「検査に行くときのバッグ、別のところに置けない?」紬はバッグを椅子の横へ移した。中の書類は取り出さなかった。前日に診察を受けて帰宅し、入れておいたままだった。7月8日の朝だった。直人は翌日の授賞式の動線を確認しながら、今日もリハーサルと関係者との約束があると言った。紬が食卓に置いた水の入ったコップを持つと、彼は遅れて彼女のほうを見た。「明日は行けそう?」「行けないと思う」「まだそんなに具合が悪いの?」「うん」直人はそこでようやく、しばらく彼女を見た。紬はカップを食卓に置いて待った。どこがどんなふうに悪いのか尋ねられたら、前日に聞いた話から伝えればいいと思った。「じゃあ家で休んで。イベントが長引いたら座っているのもつらいだろうし」彼は出席者を確認する画面に戻った。家族席に名前を書く欄が見えて、消えた。紬は誰に連絡しているのか尋ねなかった。自分が行けない席に別の人を座らせることまで確かめたくなかった。「夕食は?」「今日は外で食べる。明日も早く帰るのは難しいと思う」紬はうなずいた。夫はまたネクタイについて尋ねた。彼女が知っているのは、引き出しのどの段にネクタイが入っているかまでだった。「一番下の段にあるよ。そこで探して」直人は引き出しを強く閉め、また開けた。しばらくして見つかったとも言わず、スマートフ
青い印のついた原稿を数えながら、紬は17番目で手を止めた。前に数えた束をもう一度数えていた。紙をすべて床に広げれば一目で見えるだろうが、かがんで立ち上がることを何度できるかわからなかった。彼女は机の上に5編ずつだけ置くことにした。順番を決めた束は左に、まだ確かめていないものは右に置いた。原稿を整理する方法まで、昔と同じである必要はなかった。6月29日だった。窓の外ではエアコンの室外機の音がずっと聞こえていた。紬は風が直接当たらないよう椅子の向きを変え、真帆から受け取った撮影データを開いた。紙に残った場面と画面に表示された場面を並べて確認できた。6月も診察は続いた。治療を受けた後に体調が悪くなって次の投薬を調整したこともあり、食事が難しかったり痛みが強くなったりして予定の外来より先に連絡した日もあった。紬は調子のいい日にできることをまとめて終わらせようとし、翌日ほとんどベッドから起きられなくなってからは、時間を短く分けた。今日は午前中に原稿の前半だけを見るつもりだった。真帆と会う午後までに全部終えなければならないとは、誰にも言っていない。立ち上がって休んでいる間は、作業一覧の印が増えなくてもよかった。最初の束を開くと、雨上がりのバス停が出てきた。女が濡れたベンチの一席を拭く最初のコマだった。紬はその絵を前にして、しばらくほかのページをめくらなかった。見慣れた場面の始まりと、自分の名前が同じ一覧に書かれていた。その後に入れる原稿は一度には決めなかった。カップを洗いながら窓のほうを見る女の話は少し前に、降りる場所を通り過ぎて花屋に入る話はその後に置いた。1人でパンを食べる女と服を選ぶ女が続くと、2編の間に別の季節の場面を挟んだ。女が同じ場所に立ち止まったままの人として読まれてほしくなかった。戻り、出かけ、何もしない日もあったのだから。紬は新しいセリフを書く代わりに、すでに描いた場面の間隔を見た。数年前に描いた紙には、当時の日付が余白に残っていた。最近1コマを変えた原稿もあった。紬は修正した日付と変えた部分を作業一覧に書き足した。元の絵と修正後の絵を同じファイルだと取り違えないよう、真帆が求めた印だった。病院へ行った日の場面は、その日以降に描いたものだった。春に書き留めたメモをもとに、後から構図を直した場面には、その時期も残した。紬は実際に経験したことと
5月7日の午後、紬は入院用バッグを横に立て、改めて診察を待った。朝に予定していた手続きは変わっていた。体の状態を診てもらい、必要な処置を受け、次の診察を決めるまで、バッグは椅子の横に置いたままだった。職員が予定を確認しながら尋ねた。「次はこの時間に来られますか?」「はい。来られます」紬は手帳に日付を書き、新しい予約を確認した。翌日また病院へ行き、その後の調整を経て5月12日に入院した。荷物を解くと、バッグからしわになった案内が出てきた。先週使うはずだった紙だった。彼女は捨てずに別の書類の下へ入れた。入院中の一日は、検査と診察の時間に合わせて流れた。その合間はベッドに横になって休んだ。直人からファイルの場所を尋ねられると、フォルダーの名前だけを答えた。いつ家に帰るのかという質問には、退院の日はまだわからないと言った。病院でパソコンを使えるかという問いには、答えずにおいた。医師は病気が胃の外まで広がっていると説明した。手術ですべてを取り除くのは難しい状態で、薬物治療を含めた可能な方法を検討しなければならなかった。紬は説明を聞きながら手帳を開き、ペンを置いた。今回はすべてを書こうとせず、先に耳を傾けた。「それでは、手術はしないんですか?」「今確認できている範囲では、手術で取り除く治療を優先するのは難しいです。病気の進行を抑える治療を検討しながら、食事の問題や痛みも併せて調整する必要があります」「何もできないわけではないですよね?」医師は、今できることと、体の状態に合わせて調整すべきことを分けて話した。紬は治療を受けたいと答えた。可能ならいつ始められるかも尋ねた。入院中は、食べられる量や不快な症状を伝えることも治療の一部だった。痛みが少ないと答えれば早く家に帰れる気がして、ついそう答えそうになる癖が残っていて、看護師に尋ねられるたびに紬は少し考えなければならなかった。いつ痛みが強かったか、食べた後に何がつらかったかを話すには時間がかかった。それでも、その言葉を書き留める人がいた。退院の会計をしながら、紬は自分の口座の残高を確認した。個人原稿の前払い金が入ってから初めて支払う入院費だった。金額を確認して支払い、残ったお金で次の診察と移動に使う費用を計算した。家に生活費がいつ入るのか直人に尋ねる必要が減った分、自分の予約を先に書き込めた。退院時に
5月7日の朝、旅行用バッグは玄関に置かれていた。紬は病院から持参するよう言われた書類を確認し、スマートフォンにタクシーの配車画面を表示した。まだ呼び出しボタンは押していなかった。後ろから直人が紙を1枚差し出したからだった。「これ、1行だけ見て」紬は時刻を確かめた。8時55分だった。「もう出ないと」「病院は10時だろ。読むのに1分もかからないよ」彼が持ってきたのは祝いの動画の台本だった。先週資料を送った後、追加撮影用にもう一度直してほしいと依頼が来たという。紬が書いていない文が途中に入っていた。古い原稿から人物のセリフを抜き出し、作家自身の経験であるかのようにつなげた部分だった。「これ、登場人物が言った言葉でしょう」「だからちょっと変だなって。俺が言ったことみたいに変えられない?」「削ればいいよ」「削ったら前の動画と合わないって言ってるだろ」直人は紙の向きを変え、紬のほうへさらに押し出した。紬はスマートフォンを食卓に置き、削る文に印をつけた。出発を遅らせずにできる最後のことだと思った。線を引くと直人は、その後に続ける言葉を尋ねた。「それはあなたがやって。考えてあるんでしょう」「今のまま渡せってこと?」紬はペンを置いた。直人は撮影担当者に電話をかけ、30分以内に送ると言った。紬にできるかどうかも聞かずに交わした約束だった。通話が終わるのを待って紬がバッグを持つと、彼は小さな部屋を指した。「原稿も一緒に開いて見ないと。場面の順番が変わったから」「今日はできないって言ったよ」「入院してもすぐに何かするわけじゃないだろ。受付が少し遅れるだけじゃないの?」「あなたが決めることじゃない」声が大きくなると、直人はリビングの窓のほうを見た。外で聞く人を意識するその動きのせいで、紬は思わず抑えようとした声を、そのままにした。「病院に行かないといけないって、何度言ったと思う? 日付も2回変えたの」「だから今日終わらせてから行けばいいだろ」直人は同じ説明を繰り返しながら、撮影担当者にまた電話をかけた。通話が終われば出かけられると思ったが、終わるたびに別の紙を差し出した。小さな部屋の机には前日に印刷した場面が残っていた。紬は夫がそれを口実にまた引き止めないよう、確認の終わった紙だけを手に取った。パソコンをつけて新しく直すつもりはなかった。リビング
紬は返してもらった封筒を机の引き出しの奥に入れた。真帆が保管する原稿の一覧には、その封筒は載っていなかった。一覧を折ってファイルに挟んでも、机の上にはまだたくさんの紙が残っていたので、すぐに必要な病院の案内からバッグに入れた。4月16日の診察には、予約の時刻より少し早く着いた。前の検査資料がきちんと届いているか確かめて座っていると、看護師が最近の食事の量を尋ねた。紬はちゃんと食べていると答えかけ、前日に食べたものを順に話した。口にしてみると、自分で思っていたより少なかった。診察室では検査結果と体の状態を一緒に見た。医師は病気がどこまで広がっているかさらに確認し、治療計画を決めるために入院して評価を受けるよう勧めた。食べる量が減ったことも併せて調べる必要があった。「何日くらいと考えればいいですか?」「検査やお体の状態によって変わることがあります。まず入院して必要な評価を行い、計画をご説明します」紬はカレンダーを開いた。医師が待ってくれる間に、画面に夫の予定が表示されたので、自分の予約を書いた小さな手帳を別に取り出した。4月23日の横には何も書かれていなかった。「その日にしてください」彼女は日付を書き留めた。病院では、それまでの間にも症状が強くなったら、予定日を待たずに連絡するよう言われた。診察室を出ると、真っ先に来週の原稿のことが浮かんだ。紬はメッセージ画面を開こうとした手を止め、入院の持ち物の案内から読んだ。足りないものを書き留め、薬局に寄ってから家に帰った。直人に日付を話したのは、その日の夕方だった。彼はモニターから目を離さず、どのくらいかかるのかと尋ねた。「まだわからないの。検査ももっと必要だし、治療の計画を決めるって」「じゃあ、検査にどれくらい時間がかかるかもわからないの?」「やってみてから決めるんだって」紬はバッグから案内を出し、食卓に置いた。直人は紙を読む代わりに、メッセージで届いた修正依頼を確認した。来週までに渡さなければならない原稿に問題が出たという。登場人物がけんかする理由がわかりにくいという意見だった。「その部分は俺も手を入れてみたんだけど、前後がまた合わなくて」「今回はあなたが整理しないと」直人は笑うように口元を動かした。「急に君が抜けたらどうするんだよ。休むにしても、渡すものは渡してから休まないと」入院して